
創業者 上野 清の父、上野清吉は福井県小浜市西津の出身です。
若狭湾で初めて底引帆船にディーゼルを付けたり、
当時最新のかまぼこ用擂潰(ライカイ)機へのモーター電動式を取り入れるなど進取の気性の富んだ人物でした。
昭和3年、警察の武徳殿を300円で購入し、所有の桑畑に移設しました。これが後の丸海発祥の地となります。
その後も、永く煉製品工場として使われました。

創業者の上野 清は、上野屋を継ぐため、小浜水産学校へ入り、大阪の食品会社に丁稚奉公していましたが、
戦時における応召の為、軍人の道を歩みます。その結果、父 清吉の急逝と共に上野屋は廃業。
その後、豊漁の鯖の加工を中心に家業の再建を図ろうと帰郷しました。
ちょうど時同じく漁業組合有志は、同じように鯖の加工を実業につなげようと 新たな加工組合設置とその、
リーダーを模索していました。そして、組合長へ就任し、同志の池田喜助他数人と共に、新しい組合に邁進致しました。

戦後の極端なインフレや全国的な労働争議の嵐を横目に、幸いにも豊漁の勢いに助けられました。
軍人の経験を活かし、戦略的着眼で果敢な実行力と 水産学校時代、戦友、業界をはじめとする豊かな人間関係による
、情報力と信頼で商売はスケールの大きい方へ進んでいきました。
昭和25年3月27日 資本金150万、株主総数25名で、小浜海産物株式会社を設立し、
上野清が社長へ就任し、 豪放にして繊細、剛柔、合わせもつ気性と商才で、事業を発展させました。
後に、商工会議所会頭等歴任し、勲四等瑞宝賞受賞の栄を賜りました。

昭和40年代売上は、右肩上がりに伸びていきました。
約年商10億の小浜海産物株式会社の柱として活躍。
当時は、まだコンピュータと呼べるものも1台で、計算と言ってもそろばんでした。
漁も豊漁で毎日1日を過ごしていくのがやっとの時代。年末にはブリを大量に引き荷して各地へ出荷。
現在でも、威勢のいい声が飛び交い、夜が明ける前から魚介類の やり取りをしています。

当初、鮮魚部も冷凍・塩干も同じ部署でした。
しかし、時代の流れの中で、次第に冷凍品の物量拡大が進み、部署が分かれ単独部となりました。
昔は、魚といえば、当然ナマ。 そんな中、時代を読み全国と商売を続けてきました。
含め塩干品、チルド・冷食、グロサリーなども拡大。
現在は、商品事業部として小浜海産物株式会社の柱の内の1つです。

海の町=煉り工場がつきもの。
そんな中、丸海も創業当初から煉り製品のかまぼこやちくわを作り続けていました。
現在では、合理化やデフレなどの世情で大手による介入が大きく生産量も減りましたが、
昭和時代は日産1万5千本、年末その3倍近くの数量を焼いていました。

小鯛ささ漬は、初代池田喜助氏と京都の料亭との間で開発されたといわれています。
詳しい資料はありませんが、昭和11年11月に小鯛笹漬の名称で知事賞をいただいた 賞状が残っております。
その後、ここ若狭小浜で十数件の魚屋が組合を作り現在に至ります。
丸海では、豊富な取引先と鮮魚部の貢献のおかげで常に鮮度の良い魚が 手に入ります。
また、母体も大きく、ささ漬のシェアを獲得していきました。現在では年間ささ漬を60万樽製造しております。
日本の伝統食として今後もより良い製品を 造り続けていきます。

昭和50年代、他に追随を許さない独自の製法と品質で、急速に販路が拡大されました。
日本国内だけではなく、オーストラリア、アメリカやがてはスペインへ。
そのスペインで爆発的ヒットし、 毎月、3~4コンテナ(約80万個)の製造が約10年間続けられ現地No.1を維持してきました。
しかし、時代の波の力は大きく、韓国、台湾などから類似の供給や、円安も加わりスペインからの 貿易事業のむずかしさを味わいます。
ラテン系スペイン人は、感情豊かで義理人情に厚く、不滅の交流が続いています。
現在でも品質と大きさで好評をえて全国各地へ出荷しています。

1989年縁があり、中国水産科学研究院東海水産研究所並びに上海の水産会社数件を訪問しました。
バブル絶頂期で水産業界も特有の閉塞感が漂っていたため、その打破が目的です。
上野清治社長の 人徳、信頼感で脈を広げ海江食品有限公司食品を設立。
その後、大阪うおいち様や前田海産様の明太子製造などを請け負い発展。
魚卵に強く、シシャモの卵などは欧米へ 輸出しています。
また、上海に事務所を構え、輸入輸出の事務処理代行や中国国内へ向けての製品販売の営業活動を行っております。
現在でも東海水産研究所とはつながりが深く、 技術研修生受け入れも続いています。